読書と音楽の杜から

共同執筆ブログです。読書や音楽をメインコンテンツとして、参加者各位の問題意識に沿ったご投稿をしていただきます。

バッハの無伴奏チェロ組曲の成立史

 前回は、ヨハン・セバスチャン・バッハの傑作である無伴奏チェロ組曲全曲を聴き比べてみようという記事を寄稿しました。今回は、無伴奏チェロ組曲の成立史をキリスト教と絡めて簡単に素描してみたいと思います。そして次回は、無伴奏チェロ組曲の演奏史をご紹介して、一連のバッハの無伴奏チェロ組曲の連載を終えたいと思います。

 

 ヨハン・セバスチャン・バッハは中部ドイツのテュービンゲン地方に生まれました。マルティン・ルターの活躍した土地でした。ルター派の多い地域でした。

 ルター派とはプロテスタンティズムの一宗派です。カトリックの免罪符というお金を積めば天国に行けるという教義に断固対抗して、痛烈に批判し、宗教改革を起こしたのがマルティン・ルターです。またカトリックが音楽で豪華絢爛なミサやレクイエムで魂が救われるとしていたのに対して、ルターは簡素でアットホームなカンタータを重んじました。

 ルター派は音楽に寛容な宗教です。むしろカンタータや賛美歌を積極的に布教に利用してました。教義ではなく音楽の魅力でひとびとを改宗させていたのです。

 それに対して同じプロテスタンティズムでも音楽に厳格なのはカルヴァン派です。合理主義のカルヴァン派からみれば音楽を楽しむという行為がうっとりとした非合理的であり、音楽に傾倒する没入することはひとびとを惑わす、とされたのです。カルヴァン派から視れば音楽を布教に利用するのは邪道であり、その意味ではカトリックもルター派も同じでした。合理主義の教義こそすべて、がカルヴァン派でした。

 

 厳格なカルヴァン派は宗教建築や象徴、芸術、音楽に合理主義を持ち込みました。カルヴァン派の嵐が吹き荒れたイングランドの芸術や音楽が後退してしまった話はあまりに有名です。合理主義で改革精神に富んだカルヴァン派は議会制民主主義を生みました。政治的には進歩的でも音楽は貧弱になりました。

 それに対してルター派は権威に弱く進歩的ではありませんでした。ドイツが芸術や音楽で栄えた代償として政治的に後退してしまったのは有名な話です。この辺について詳しく知りたい方はマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をお読みください。

 

 先述したとおりバッハの故郷であるテュービンゲン地方のアイゼナッハは声楽を中心とした音楽が盛んなルター派の牙城でした。バッハはそこですくすくと育ちました。

 バッハの作曲年代は大きく3つに分類できます。

①ヴァイマール時代のバッハ。②ケーテン時代のバッハ。③ライプツィヒ時代のバッハ。です。ここで注目したいのは②のケーテン時代のバッハです。

 当時のケーテンは厳格なカルヴァン派の侯爵に統治されておりました。バッハが厳格なカルヴァン派の君主に仕えたのは、後にも先にもこのケーテン時代だけです。またケーテン侯爵はチェロの名人でもありました。

 ですからこのケーテン時代はとても大切なのです。そこでこの時期は、ヴァイオリンの聖書と言われる無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータや、すべてのチェリストの聖典と言われる無伴奏チェロ組曲など器楽曲の名作がたくさん生まれました。ピアニストの旧約聖書と言われる平均律クラヴィーア曲集第一集も生まれました。

 

 このように素描してみると如何にヨーロッパの音楽が宗教の影響を受けたのかがわかります。そしてバッハも例外ではありません。ヴァイマール公爵が暴君でバッハがヴァイマールからケーテンに逃げていなければ、あの綺羅星の如く器楽曲は存在しなかったかもしれません。

 

 以上、脱線しながらヨハン・セバスチャン・バッハの無伴奏チェロ組曲とカルヴァン派について素描しました。簡単な成立史ですがご笑覧ください。次回は無伴奏チェロの再発見と演奏史になります。

 

 

芋の目 #1「はじめまして」

はじめまして。

芋仁と申します。

よろしくお願い致します。

 

本について書くには、正直申し上げて私はあまり読むのが得意ではありません。

 

最初の記憶は、父の本棚です。

父は沢山の画集を集めていました。セザンヌ、ルノワール、ゴーギャンetc、スケッチ集、紀行本、美術論、美術館のパンフレット…

大切なものばかりだったろうに、私が触れても父にたしなめられたことはありませんでした。

(画材をTVモニターの中へ入れて怒られたことはあります)

どれも古い本で、手触りや匂いも憶えています。

現代の美しい印刷技術や、凝った装丁本からすると、彼が貧乏学生だった頃に集めたその本たちは色褪せていて、解像度も甘かったように思います。

でも、少なくとも私にとってのセザンヌやモネは、父の隣に座り、安心して時間を忘れ、ページをめくっていたのが始まりだったように思います。

 

なので、私にとって「読書」というものは、活字を追う喜びの前に、「手にとる直感」「好みの絵や写真をみる」「手触りや匂いが合うか」そして何より「安心するかどうか」、感覚的なところがフィットしていないと、途端に苦痛になってしまう妙な癖があるのです。

 

幼い頃は父に手を引かれ美術館や博物館へ行きました。

人気の展覧会の際は混雑していて人垣で作品がなかなか見えないことがありました。

本当は父がいちばん見たいはずなのに、私を肩車してくれて「○○(私)が見てくれればそれでいいよ」と長い時間、歩いてくれました。おかげでその後の何日かは父の肩は凝り固まり、私のすねには青あざが。でもちっとも嫌ではありませんでした。

 

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そんな父との思い出から、文字への誘いが始まったのは、サン=テグジュペリの「星の王子さま」でした。

 

私が遠くへ引っ越すことになった日に、近所でいつも優しく面倒をみてくれたお姉さんから贈り物として手渡された本です。

私が読むにはだいぶ背伸びしないと読めないものでした。

でも、本の中にはお姉さんからのメッセージが書いてあって。別れ際に最初の挿絵の説明もしてくれて。私は幼心に、一気にこの本の世界の虜になったものです。

折にふれ、再読したくなる本です。

「羊の入った箱」を想像すると、私は今でも胸が高鳴ります。

 

あれから私がずっと愛してやまないのは児童文学、絵本、そして詩です。

読みやすく、行間の中に、私の想像や空想が入る“余地”を残してくれてるからです。

 

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私はずっと、自分の存在が許される居心地の良い場所を探し求めてきました。

本の中にもそういった安心感が必要なのかもしれません。

 

(父も亡くなり、あの時のお姉さんは以来それきりです。すべては過去の良い思い出です。)

 

いろいろ勉強は必要でしたから、それなりの本には目を通してきました。

 

でもこれからは、私の感覚をより大切にします。

私の好奇心を満たしてくれて、より穏やかな時間をくれる本たちと過ごしてゆきたい。

そう思っています。(imo)

 

🌿

 

【編集後記】 異なる端末間で編集にあたっているため、レイアウト面で若干イメージの食い違いが見られているようです。9月24日時点のものを、そのまま公開していることを申し添えておきます。お含みおきください(しょうじ)。

 

 

(お知らせ)課題図書型読書会「素人だけど哲学したい」

こんにちは。共同執筆者のひとり富岡美代子です。

今回は、「素人だけど哲学したい」に参加する方へのお知らせが2点あります。

 

(お詫び)初回テキスト【絶版】のお詫び

このたび、初回のテキストに指定していた『はじめて考えるときのように』野矢茂樹(PHP文庫)が絶版になっていることが判明いたしました。恐れ入りますが、下記のAmazon公式サイトからKindle版または中古書籍でお求めください。

テキストの定価は619円(税別)ですが、絶版になったことにより、コレクターズ商品として新品が2倍以上の高値で出回っているようです。ご注意ください。

www.amazon.co.jp

 

(お願い)希望日時アンケートへのご協力について

主催者都合で、隔週土曜日の朝または夕方、または、隔週日曜日の朝での開催としたいと思います。日時詳細は以下をご覧ください。

  1. 隔週土曜日 午前 08:00~10:00(12月3日開始)
  2. 隔週土曜日 午後 16:00~18:00(12月10日開始)
  3. 隔週日曜日 午前 08:00~10:00(12月4日開始)
  4. 隔週日曜日 午前 08:00~10:00(12月11日開始)
  • 12月24日(土)~1月8日(日)は、冬期休業といたします。
  • 回答は、富岡のTwitterアカウント(@study_miyoko)までDMでお答えくださいませ。
  • ご不明点、ご要望も、上記のアカウントへお問い合わせくださいませ。

 

おわりに

12月から、皆さまと「ゆるく・楽しく・真剣に」哲学できるのを楽しみにしております。どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

映画とクラシックの、密かな関係(1)~プリティ・ウーマン

こんにちは、しょうじです。

以前、下記の記事でご案内していた、しばらく以前の映画に登場していたクラシックの名曲について、紹介をしようという企画をスタートいたします。おつき合いくださいますと幸いです。

 

cooperate.hatenablog.com

 

今回はその第1弾として、ジュリア・ロバーツがブレイクするきっかけとなった映画『プリティ・ウーマン』(1990年)と、その中で効果的に使われていたヴェルディのオペラ『椿姫』についてご紹介いたします。

 

映画『プリティ・ウーマン』あらすじ

「有能」だけど、家庭はうまくいっていない実業家のエドワード(リチャード・ギア)が、企業買収のためにロスアンゼルスに乗り込んできます。車を運転中、道に迷っていたところ、ヴィヴィアン(ジュリア・ロバーツ)が声をかけます。彼女は「街に立っている女性」。しかし、純粋な一面も持ち合わせていました。

エドワードは、一週間共に過ごす話を持ちかけます。始め、反発し合うところもありましたが、ヴィヴィアンの魅力を引き立て、「淑女」として扱おうとしているうちに、互いに惹かれ合うようになります。

やがて、約束していた朝が来て、別れの時が来ましたが――。

 

オペラ『椿姫』のシーン

ヴェルディのオペラ『椿姫』は、全オペラ作品の中でも1、2を争う有名なオペラです。第1幕で歌われる『乾杯の歌』は、あまりにも有名。聴けば「ああ、あの曲か!」と思い起こされることでしょう。

この『椿姫』ですが、映画の中でも「かなり」重要なシーンとして用いられています。エドワードは重要な商談をすっぽかして、プライベートジェットを飛ばして、サンフランシスコの劇場へと向かいます。そこで上演されていたのが、この『椿姫』なのです。

YouTubeで動画があったので、下に掲示しておきますね(22/09/16現在公開中)。実は、この引用のされ方が秀逸なんです。

 


www.youtube.com

 

採用されているのは、

①第1幕前奏曲直後の音楽、

②第1幕終結部のアリア『花から花へ』、

③第2幕、ヴィオレッタがアルフレートに別れを告げるシーン、

④第3幕、ヴィオレッタの絶命のシーン

といったところ。ここだけ押さえられていれば、『椿姫』の筋書きは、ほぼ網羅されている感じがしますし、何より重要なのは、映画の本筋ともシンクロしているところなんです。それについては、次項の「オペラ『椿姫』のあらすじ」でご案内しますね。

 

オペラ『椿姫』のあらすじ

パリの社交界にデビューした地方貴族の青年アルフレートは、あこがれの高級娼婦・ヴィオレッタに請われるままに詩を披露します(これが有名な『乾杯の歌』です)。

ヴィオレッタは、アルフレートの純粋な求愛に心動かされ、第一幕の終結部でアリア『花から花へ』を披露します。「恋になんかのぼせてないで、私は人生を楽しむのよ」と。

第2幕。アルフレートとヴィオレッタは、彼女の別荘で愛の日々を過ごしていました。しかし、アルフレートの留守中に、父・ジェルモンが訪ねてきます。アルフレートの妹の結婚が近い、あなたにうつつを抜かしているとの評判が立つと、妹の結婚に障りがある。別れてやってはくれまいか――。ヴィオレッタは、泣く泣くアルフレートの元を去る決意をします。理由は告げず、ただ、「私があなたを愛するのと同じくらい、私にことを愛してね」との言葉を残して・・・。

そして第3幕。もともと結核を病んでいたヴィオレッタは、ついに絶命します。

 

ヴィヴィアンとヴィオレッタ、2人のヒロイン

わずか1~2分程度のシーンですが、ここでの引用は秀逸です。『椿姫』全編の「要約」としては、筋書きとしても、音楽的にも、重要なポイントをしっかり押さえてあります。

それだけでなく、ヴィヴィアンはヴィオレッタ(という役名であることさえ知らないだろうと思いますが)にわが身を重ね合わせていることがうかがえます。重要なのは、このオペラの筋書きは知らない、わからないだろうヴィヴィアンが、音楽だけでこのオペラに没入していくところが、ジュリア・ロバーツの表情の変化だけで見事に語られているところです。自分の境遇と、エドワードへのときめきが、いかにはかないものであるのか、ヴィヴィアンは感じ取っているんですね。

ちなみに『椿姫』とは邦題であって、もともとは『ラ・トラヴィアータ』といい、「道を踏み外した女」という原意なんだそうです。これについて私見を述べれば、ヴィオレッタはアルフレートへの純粋な愛に生きようとしている、しかしそれは、「娼婦」としての「道」を踏み外しているものである。ただし、本当に「道」を踏み外していたのは、誰だったのか。そんな問い掛けが含まれているように思われます。

イタリア語はもちろん、オペラの筋書きもわからないだろうヴィヴィアンが、このオペラ(の主人公)に没入する。そうした感受性を持ち合わせているヴィヴィアンを見て、エドワードは彼女を見直し、好きになっていく。そんなことを示唆しているのが、『椿姫』のシーンなのだとぼくは思っています。

 

『椿姫』のオススメ・ディスクは?

どうでしょう。『椿姫』を全部見るなり聴くなりしてみたくはないですか。でも、この作品については、実は「万全」なCDがないんです。

作中でも引用されたシーンの『花から花へ』は、音域の広さ、感情の振幅など、表現においても技術においても、難曲中の難曲として知られ、かのマリア・カラスでさえも「決定盤」を残せず終いだったんですね。

ですが、指揮やテノール(アルフレート役)に比べると、ソプラノ(ヴィオレッタ役)が見劣りするかもしれませんが、第一に挙げられる候補は、カルロス・クライバー指揮のバイエルン国立管弦楽団盤でしょうね。

 

www.hmv.co.jp

 

※どのバージョンも品薄でした。

 

クライバーの指揮の推進力、躍動感は特筆すべきものですし、アルフレート役のドミンゴ、ジェルモン役のミルンズもすばらしい。見劣りとは言っても、ヴィオレッタのコルドバスだって、及第点だし、これは持ってていいと思います。ぼくのオペラ盤初体験は、この録音でした。

 

オチ

最後に「オチ」をつけようと思います。映画で訪ねていった劇場は、サンフランシスコでした。サンフランシスコには、立派なオーケストラがあるので、映画でも名の通った指揮者や配役なのかなあと、調べてみました(と、知人に知らせたら、爆笑された)。エンドロールも止めて見てみたんですが、出てなかったので、「サンフランシスコ」「1980年代」「歌劇場」をかけ合わせてググってみました。残念ながら、ぼくが知っているほどのメジャーな指揮者でも歌手でもなかった。どうりで、ピンとくる演奏・歌唱ではなかったわけだ(って、感動ポイントが違ってる!)。

 

         *       *       *

 

以上、長々と書き綴ってしまいましたが、今回はこれで終わりです。初回ということで意気込んでしまったのですが、次回はもっとコンパクトになると思います。どうぞよろしくお願いいたします。最後までお読みくださり、ありがとうございました。それではまた!

 

 

バッハの無伴奏チェロ組曲の聴き比べ!

 そろそろブログの記事を寄稿したいと思っておりましたが、なかなか記事が降りてきません。そうこうしているうちに前回の寄稿から時間が経ちました。我ながら情けない!。

 そこで共同執筆ブログの全記事を読み直してみました。すると主宰者のしょうじさんがわたしのバッハの寄稿に関連付けてバッハの名曲・名盤を紹介しておられました。しょうじさんはバッハの超名曲の無伴奏チェロ組曲の超名盤のピエール・フルニエ盤を挙げておられました。この度のわたしの投稿はこのしょうじさんの記事に寄せて書こうと思います。

 

 しょうじさんはピエール・フルニエという「チェロの貴公子」として愛されたフランスの伝説的なチェロ奏者の名盤を紹介されました。彼のバッハの無伴奏チェロ組曲は現代奏法によるバッハの到達点のひとつです。CDは今でもこの超名曲の代表的名盤を死守しております。 

 これに対してわたしが紹介するのはアンナ・ビルスマの新盤です。アンナ・ビルスマは「神聖なバッハ像」に対して「新しいバッハ像」を問題提起した古楽器グループの代表的チェロ奏者です。「神聖なバッハ像」と「新しいバッハ像」についてはわたしの過去記事を読んでくだされば理解が深まると思います。 

 古楽器とはバッハの時代の楽器でバッハの生きていた時代の奏法で演奏する、ことです。弦楽器の弦には羊の腸が使用され、奏法もレガート中心の現代奏法に対してリズムの躍動を重視した鋭角的なものです。 

 神聖な精神性と気品のフルニエに対して、親しみやすく友人とのお喋りのようなバッハです。ビルスマも属する古楽グループの論客かつ演奏家かつ指揮者のニコラス・アーノンクールは、古楽によるバッハを、バッハとの対話やお喋りのようなもの、とどこかで書いておりました。

 

 ビルスマの無伴奏チェロ組曲には2つあります。アーノンクールのように対話やお喋り、リズムに重点を置いた鋭角的で斬新な旧盤と、現代楽器の名器であるストラディヴァリウスを使用して録音された新盤です。

 学問的には旧盤をとる人が少なくありませんが刺激が強すぎます。わたしは円熟して円みを帯び、現代楽器で録音された新盤をここでは紹介したいと思います。

 新盤は、縁側で日向ぼっこしているような長閑な演奏です。そして気のおけないおじいちゃんやおばあちゃんとお喋りしているような明るく親しみやすいのが特徴と言えるでしょう。刺激な旧盤がマイルドに中和されてますから、聴きやすいと思います。

 

 長くなりました。しょうじさんの紹介された「神聖なバッハ像」を体現するピエール・フルニエ盤と「新しいバッハ像」を体現するアンナ・ビルスマの新盤。是非、聴き比べてみてください。クラシック音楽やバッハの奥深い世界への誘いになることでしょう!!!。

 

 追記ですが、このバッハの無伴奏チェロ組曲という超名曲についての解説もいつかこの共同執筆ブログで寄稿する予定です。お楽しみに!。 

 

【テーマ発言】しょうじの「これから書きたいこと」②

 

 

おはようございます、しょうじです。

すでに一度「書きたいこと」について記事にしてはいるのですが、さらに今後書いてみたいことが出てきましたので、「書きたいこと②」としてエントリーいたします。

映画をご覧になる方はご承知おきでしょうが、映画には、さまざまなクラシック音楽の名曲が登場しています。それらについて、映画のあらすじと、楽曲についての簡単なエピソードを交えてご紹介していけたらいいなと考えています。上に挙げたのは、いわば「最強の」クラシック音楽ムービーである『アマデウス』のサウンドトラック盤です。

この、『アマデウス』を始めとして、次に挙げるような映画についてご紹介していく予定です。どんな曲が使われていたのかについては、お楽しみ、です(笑) 以下、順不同で映画のタイトルを紹介していきます。

・地獄の黙示録

・オーケストラ!

・ダイ・ハード(1/2)

・アンタッチャブル

・ショーシャンクの空に

・ゴッドファーザー Part3

・プリティ・ウーマン

・2001年宇宙の旅

以上で、10作品となります。いささかラインナップが古いのは、ぼくが古い人間だからです(笑) 楽しんでくださいますと幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。それではまた!

 

 

 

【ご案内】公開対話についての考え方

こんにちは、しょうじです。

関口さんが書かれた原稿について、富岡さんが言及、以前申し上げた「公開対話」が始まりそうです。そこでぼくが「原案」を提示した上で打ち合わせをし、おおよその方針を以下のとおりといたしました。ご参加を希望される方は、確認くださいますようお願い申し上げます。

 

タイトルのつけ方

・冒頭に【公開対話】と入れる。
・次にテーマ、連番とする。

・例)

【公開対話】死刑制度について考える② 
【公開対話】モーツァルトの名曲・名盤について①

などとしてください。

 

カテゴリ設定

・新規に「公開対話」を増設して、第一カテゴリとする。
・子カテゴリ(読書、音楽等)+孫カテゴリ(クラシック、児童文学等)を付与する。

・カテゴリ設定については、希望は募りますが、しょうじによって決定・割り振りをすることといたします。

 

予定

現在、関口さんを第一起稿者、富岡さんを第二起稿者とした「死刑制度」に関連した公開対話が始まる予定です。もちろん、第三・第四の起稿者も歓迎します。途中参加・途中退出はOKですので、ご希望のタイミングでの参加をご検討ください。

もちろん、これ以外でも「対話」が始まることを期待しております。どうぞよろしくお願いいたします。

 

お願い

特に細かいルールや制約を設けるつもりはありませんが、一般的な、対面でのコミュニケーションでも望ましい、あるいは良識的とされる範囲内での言動を心がけてくださるようにお願いいたします。

ご質問・ご意見がありましたら、Discordサーバかコメント機能をご利用ください。また、これを期として、新規でご参加を検討くださる方も、コメント機能か、ぼくのTwitterアカウントへのDM等をご利用くださいますようお願いいたします。

 

         *       *       *

 

今回はここまでです。ご参加をお待ちしております。最後までお読みくださり、ありがとうございました。それではまた!

 

 

死刑制度と刑罰理論

共同執筆ブログの執筆者の関口存男です。そろそろ記事を寄稿したいと思っておりますが、アイデアが降りてきません。そんなことを考えていたら夜が明けてきました。いわゆる徹夜をしました。

 

朧げながら書きたいことが纏まってきましたので、それをについて書きます。それは死刑制度と刑罰理論についてです。

最近、わたしは刑法学に関心があります。広大な法律学の森の中で最も哲学的・理論的と称されている分野です。人の最重要課題である死を扱う法律だけに議論され研ぎ澄まされ、美しいまでに精緻化されております。それに魅せられたのです。元来、哲学科におりまして抽象的理論的なものが大好きなわたしにとって、刑罰理論は魅力的でした。

 

犯罪と刑罰は、罪と罰という古来より哲学・文学・宗教の重要なテーマに似てます。有名なドストエフスキーの『罪と罰』はその最たるものです。わたしも罪とはなにか?。なんで罰を受けるのか?、ドストエフスキーを読んで考えていた時があります。そんな中で罪と罰から派生している犯罪と刑罰に興味が移るのは必然でした。

漠然とした罪と罰を『犯罪と刑罰』という法理論にまで理論化し体系化して近代刑法学を築いたのはイタリアの思想家であるベッカリーアでした。 

 

犯罪と刑罰という刑法学の最大の難問のひとつは死刑についてです。今もなお活発に議論されております。周知の通り、死刑についてわたしたちの日本は死刑存置論の立場をとっております。しかし、世界には死刑廃止論をとっている国々もあります。

 

この共同執筆ブログにおいてはそれぞれの歴史や論拠を尊重して議論を進めたいです。そしてみなさんと共に考えながら死刑について考えを深めたいと思っております。一回限りの寄稿ではなく、連載化したいと思っております。

 

具体的な話になります。死刑について叩き台を決めたいです。単純に死刑存置論ですか?。死刑廃止論ですか?。の問いかけでは水掛け論や空中戦になりかねないからです。そこでわたしは井田良先生の『死刑制度と刑罰理論』岩波書店刊行を読んでみたいと思っております。井田良先生は、日本における理論刑法学の学者さんです。哲学を愛する先生でして、わたしの大好きな学者さんです。

 

この井田良先生の『死刑制度と刑罰理論』をわたしなりに噛み砕いて連載として寄稿したいです。 

 

取り留めもない話に長々とお付き合い頂き、ありがとうございました。連載、楽しみにしてくださいね!。それでは!。